「お受験」日記、その後。

父親がみた小学校受験を終えた子供の日々

面接についての感想

 先日、息子の同級生のお父さんとお受験の際の面接について話をしました。いったい何を見られていたのだろうか、ということが話の中心でした。このお父さん(仮にpさんとします)、息子の学年の父兄代表のような立場に学校から入学時に指名されたのですが、pさん自身は子供の学校の卒業生ではないし、親族の方にも関係者の方はいません。一方、代々その学校の卒業生や(学校自体は100年以上の歴史があるので同窓生はそれなりに多いです)、関係者の間では「代表にふさわしい方の基準」がなんとなくあり、学校に縁の深い父兄の間では「なるべき方」がいるようで、「納得できる、できない」といったことがあるようです。

 では、なぜpさんが指名されたのか。「これはきっと面接での受け答えが素晴らしかったに違いない」と、pさんはその学校の親の集まりで色々と聞かれていました。お酒が入っていたせいもあり、雰囲気的には「どうしてpさんが.....」 というニュアンスもありました。

 それから相当に時間が経った後、私はpさんと話をする機会があり、思い出話をしているうちに、何とは無しに面接の話になりました。私の場合、家内ががっかりというか心のうちで激怒するほどに予行演習も虚しく、用意したことを全く言えず、当たり障りの無い、何らアピールすることもできずに終わってしまいました。お教室の先生からすれば不合格です。pさんの面接の出来は?と聞くと、私よりは良かったようですが、かといって特別に素晴らしかったというわけでもなく、無難にこなした程度だったようです。従って、pさんが学年の代表となったのは面接が良かったからではないだろう、というのがpさんと私の結論でした。しかしながら面接では人物も見ているはずなので、面接の結果、学年代表にふさわしいと認められた可能性もあるでしょう。

 その時のpさんとの話では、おそらく面接で見られているのは受け答えの内容ではなく人物そのものを見られているのだろう、との結論になりました。入試はペーパー重視らしいので、面接はさほど重視されていないのかもしれませんが。

 学校にもよるのでしょうが、「家族の雰囲気はいいか」、「母親、父親は普通か」、「問題を起こすようなことはないか」、といったことを見ているのでしょう。志望の動機や、学校に何を期待するかなどなど、面接に備えて予め十分に用意されているであろうことで判断することは無いと思います。私自身、試験をする側として面接時に志望動機などを聞いていても内容はほとんど聞いていません。話し方や態度、雰囲気に注意を払っています。

 そんなわけで、pさんと私の結論は、お受験の時の面接で大切なのは常識的な態度で振る舞えばいい、というものでした。

モバイルデバイス

 子供にゲームやスマホタブレットを与えるか否か。

 スティーブ・ジョブズビル・ゲイツが自らの子どもにはいわゆるITデバイスはなかったと言います。そのデメリットが大きいからでしょう。

 我が家でも子供には与えていません。少し遊ばせたことがありますが、良く言えば夢中になる、悪く言えば中毒になってしまうような印象がありました。

 また、いわゆるゲームやネットなどの仮想世界は子供が倫理観を身に付ける機会を奪ってしまうようです。これは「子どもの脳と仮想世界」という本の受け売りですが(このブログでも「子どもの脳」というタイトルで触れています)、確かにそうかも知れません。ゲームでは簡単に人を倒す、殺す、そして簡単に生き返る(やり直すことができる)ことができるわけですから、子供が「すぐやり直せる」と考えてしまっても無理はありません。もちろん、実際の世界でもやり直すことはできますが、それでも元通りに戻ってやり直すことができるわけではありません。色々なことが壊れ、傷つき、ゼロどころかマイナスから始めなければなりません。子供には実際にそのようなことを身をもって覚えて欲しいと思います。友達とケンカをして仲直りをしても、元のままではない。ケンカの原因を抱えて仲直りをする、ということを知って欲しい。

 電車の中でスマホやゲームに夢中になっている子どもを見ると、そして大人を見ると、何とも嫌な気持ちになってしまいます。

東京大学に行かせたい?

 お受験に熱心なお母様方が目指すのは東京大学のようです。これは個人の考えなのでこれ自体に他人がとやかく言うことではありません。

 が、不思議なのは、東大生や東大出身者を変人のように言ったり嫌いだと言ったりするお母様方でさえ、自分の子どもを東京大学に入れたがることです。東大の教授は変人が多いとか、東大出身者は使えないとか、性格が悪いとか、色々な「中傷」を耳にしますが、「だから子供は東大には行かせない」とはならないようです。本当に不思議です。

 私の知る東大出身者は、みなさん優秀で性格も良く、男女ともに中にはルックスまでいい人もいます。もちろん例外もあるでしょうが、おしなべて東大出身者は優秀で人格も優れているというのが私の印象です。であれば、子供は東大に行かせたい、というのは理解できます。

 我が子がどうなるのか本人次第ですが、東大でもどこでも、人格も優れていると言われるような人間になって欲しいものです。

夏休みの宿題:自由研究

 我が子も夏休みの宿題で自由研究が出される歳になりました。未だに課題が決まらず(というよりも、未だに真剣に取り組まず)、子供はうだうだと毎日を過ごしています。

 その課題。学校から配られた自由研究の課題一覧があり、その中から選んで研究することができるようです。素朴な疑問として、それって自由研究なの?と思います。少々雑でも、本人が不思議に思っていることや疑問に思っていることを調べるのが本来の自由研究であり、与えられた課題一覧から選んでする研究なら自由研究ではない、と言葉尻を捉えるようですが、思ってしまいます。親からすれば課題一覧があれば楽ですが、ふと疑問に感じる子供の夏休みです。

うんこ漢字ドリル

 今、小学生、特に男の間では「うんこ漢字ドリル」の人気があるようです。これはなかなか良い発想だと思いますし、似たようなことを御家庭でやっていた方もいると思います。私も子どもの気を引くために、うんこなどを題材に使ったことがあります。このドリルの人気が出て当然だと思いますし、子供にしてみれば親の前で公然と、堂々とうんこを語ることができるわけですから、題材の面白さ以上に子どもは心の中で「どうだ!どんなにうんこと言ったって怒れないだろう!」と叫んでいるような気がします。
 先日、書店でドリルを立ち読みしましたが(失礼!)、すべての例文でうんこが用いられ、漢字の書き取りの枠も本来は四角であるべきところがうんこのシルエットになっていました。ここまで徹底していれば子どもの心をしっかりとつかめるはずです。
 しかしながら、私としてはこのドリルに対して否定的な感想を持ちました。なんといっても例文がひど過ぎる、の一言に尽きます。すべての例文でうんこを用いることがこのドリルの持ち味だとはわかります。とはいえ、漢字の書き取りの例文は心に残ります。様々な例文を読む中で、我々の培ってきた文化に潜んでいる物事の捉え方、感じ方が身に付いていっていると私は考えています。きっと学習参考書の編集者はそのようなことも考えながら例文を選び、作っているのではないかと私は想像しています。であるが故に、今人気の「うんこ漢字ドリル」、発想としては面白いのですが、子供の教育には向いていない、と私は考えています。

忖度と贔屓

 政治家の忖度とお仲間への利益誘導が問題になっています。当初はそれほど大きな問題にはなっていなかったように思いますが、最近になってやおら問題になってきたような印象を持っています。私が思うに、忖度はどの組織にもあるもので、むしろ組織においては忖度できない方が問題とされるでしょう。だからこそ、当初はあまり問題にならなかったのではないかと思います。忖度を別の表現で表せば、「空気を読む」、「相手の意向を慮る」、「考えていることを推察する」、「阿吽の呼吸」などなど。仕事上では上司や取引相手の考えていることをこちらから想像して、あるいは先取りして行動に移して行くことが求められることは決して少なくないわけで、時に「いや、そんなつもりではなかったのですが、ありがとうございます」と取引相手に言ってもらえれば、評価は上がろうというものです。「あいつは気が利く」とか「使える」と言われることのひとつも「忖度」上手でしょう。ですから、組織の一部として生きている人の中では「忖度のどこが悪いんだ。普通だろう。」と思った人が多かったのではないかと思います。
 お仲間への利益誘導も、ある程度は「身内」や「知っている人」の様々なことの優先順位が上がることは自然なことです。「そりゃ気心の知れた人間に配慮するのは当然だ」、とか「どこの馬の骨かわからんやつを相手にすることはできんだろう」と考える人は多いのではないでしょうか。
 ただ、最近の政治家のことで問題となっているのは、公正さや公平さ、透明性が強く求められる場面で「忖度」や「贔屓」が強く働いたことではないかと考えます。もちろん、これはあまりにもあたり前のことです。
 さて、以上のことをお受験界で考えてみると、例えば面接はまさに「忖度」の世界ではないかと思います。学校の方針に沿った受け応えが求められます。自らの主義主張を前面に出して面接に臨むことは得策ではありません。時にこれが有効なことも入社試験などではあるようですが、少なくともお受験界では有効なことはほとんど無いのではないでしょうか。
 そして「贔屓」にしても、一部の小学校ではコネが効くとか、卒業生の子供だと受かりやすいとか、すでにお兄さんやお姉さんが入っていると受かりやすいとか、特定の人たちの子供は受かりやすい、というのは、それらが真実であるかどうかは別として、お受験界ではささやかれていることです。
 お受験界での「忖度」や「贔屓」が問題にならないのは、それらが「私学」でのことで「国公立」ではあり得ないことであること、入学してからの扱いは少なくとも表面上は公平で公正だからではないかと私は考えています。もし「私学」であっても、例えば特定の家庭だけは明確で納得のできる理由なくして学費が免除ということがあれば問題になるはずです。
 つまり、「忖度」や「贔屓」は、我々が日常的にある程度は許容していることなのではないかと思います。しかし、「忖度」や「贔屓」は許容されるとしても、それはあくまでも公正さや公平さが担保されていなければならないわけで、今般社会で問題になっているのはその公正さや公平さに大きな疑問が呈されているからだと思います。

お受験の目標

 都内のお受験ママの目標は子供の東京大学進学にあるようです。これ自体は否定しませんが、よく言われるようにこれがゴールではありません。卒後にどのような人生を歩むのかが重要であって、親がすべきことは選択肢を呈示することであり、そのいずれの選択肢も選べるようにすることです。とはいえその選択肢は多岐にわたり、例えば芸術関係であれば受験勉強では対処できません。ですから、受験勉強が本当に子供の将来の役に立ったか否かは結果からしかわからないものです。ただ、現実的には「良い大学には行って...」というのが最も無難な選択肢であり、そのために東京大学を目指して勉強するのもひとつの手段ではあります。が、やはりそれは「手段」に過ぎないことを認識しなければなりません。かつ、必ずしも「東京大学」が希望する選択肢を実現できるとは限りません。個人的にはいずれの道に進むにせよ「勉強」はすべきであると考えていますが、それは論理的な思考力を身につけ、より多くの概念を学び、未知の問題に直面した時に自分の判断で適切な対応のできる能力を身につけることが目的だと考えています。私の子供には理想的には少しでも多くの知識を「詰め込み」、論理的な思考というものを学んで欲しいと願っています。この論理的な思考力というものも、立場により論理の組み立て方が異なることも織り込んだ思考ができて欲しいと想います。